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脱ネイチャーのすすめ

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以前、僕が写真をやめた理由はマンネリにあると言いましたが、それは突き詰めれば「撮りたいものがない」、「何を撮っていいのかわからない」という根源的な問題に行き着くのだと思います。もともと僕はキレイなものを求めて撮る傾向がありました。もっと端的に言えば「キレイな色」に反応してシャッターを押していたのだと思います。昔は超高彩度のベルビアにPLをギンギンに効かせて「これでもか!」と言うほどコテコテの写真に仕上げるのが常道でした。今思えば、モノを形ではなく、色でしか見てなかったのですね。だから色のない冬は撮るものがなくて困りました。撮るものがなくなると途端に写真も面白くなくなってしまうのですね・・

いま昔の写真を掘り出してブログに使えそうな写真をスキャンしております。枚数だけで言えばおそらく数千枚はあるはずなのですが、その99.9%が使えないという恐ろしい事実を再確認しただけでした。なぜ使えないのかというと、そのほとんどすべてがくだらないネイチャーばっかりだからです。というか、もうネイチャーとも呼べないようなただの原っぱだったり、山の稜線が写ってるだけの写真が延々と続いてます。それも天気が良くてクッキリ見えるんならまだしも、霧がかかって真っ白で何も見えないのに無理やり撮ってるのが目立ちます。要するに「せっかく来たんだから何か撮っとかなきゃ損」という貧乏人根性が働いてるんでしょうね・・。自分の写真は8割以上がこのタイプの「とりあえず撮りました」写真で占められています。なんでこんなくだらない写真を撮るのに必死になってたのか、滑稽でさえあります。今思うと条件が悪ければ発想を切り替えて、降りたバス停を撮るとか、歩いてる人を撮るとかした方がよっぽど味のある作品になったと思いますが、当時はそんなことを思いつく術さえありませんでした。

なぜネイチャーがつまらないのか? それはそこから時代性を感じることができないからです。写真というものを芸術として見た場合、いくつかの特性は挙げられるでしょうが、最も本質的なものはその「記録性」であると思います。つまり写真とは、ある一瞬を固定して未来へと運んでいく「タイムカプセル」であると考えられるのです。写真はそれが撮られた瞬間から過去のものになっていきます。もちろん昨日撮った写真を今日見ても大した感慨はありませんが、数十年という時を経て見るとそこに封じ込められた「時間」をあちこちに感じることができます。それはちょうど熟成されたワインのようなものとも言えるでしょう。長い年月、蔵の中で寝かせることによって初めて「味わい」が出てくるのです。

写真を撮るという行為は、意識的にせよ無意識的にせよ何らかの「選択」を行っているのです。ある場所に立ったとき、そこでシャッターを押すか押さないかは自分の中のある「基準」にしたがって判断されています。シャッターを押す前にその基準に照らして適切かどうかを(無意識に)自分に問い質しているのです。そしてその基準とは、結局自分自身の「価値観」に他ならないのではないでしょうか。「ネイチャーこそすべて」という価値観を持っていれば、撮る写真も自ずからそうなってきます。電線が入ったらシャッターを押しません。観光客が入ったらシャッターを押しません。しかしそういう価値観で撮られた写真は今の自分にとって何の価値も持たないということはすでに知っています。いったんやめた写真を再生させるためには、価値観のコペルニクス的転回が必要なのです。

そこで自分に対して次のような「基準」を設けることを提案してみます。それは「今から30年後に見て価値があるかどうか」という基準で判断するということです。シャッターを切る前に常にそのことを念頭に置いていれば、自ずから撮るべきものとそうでないものは区別できるはずです。そしてその基準を頑なに貫き通す限り、「ブレ」のない力強い作品が生まれてくるものと確信します。

では具体的に「30年後に見て価値のある」被写体とはどのようなものでしょうか? 一つは言うまでもなく人間です。人間は誰しも歳を取りますから30年経てば姿形も相当変わっています。それどころかもうこの世に存在していない可能性もあります。また人間そのものだけでなく、服装なども時代とともに変わるものです。ですから人間こそもっとも変化が激しく、魅力的な被写体であると言えます。そしてもう一つは街並みでしょう。最近は再開発の波が激しく、以前あった店がなくなっているようなことも日常茶飯事で、数年も経てばまったく変わってしまうこともあります。まして30年も経てば全然違う姿になっているでしょう。いつも見慣れている駅前とか交差点とか、そんな写真を撮って何になるのか?と思われるでしょうが、30年後に見れば間違いなく貴重な資料になります。もし100年後まで残ったとすれば博物館に所蔵されてもおかしくないくらいの貴重な資料です。

逆にこの基準から判断すると最も価値がないもの、それはネイチャーです。100年、200年といった長いスパンで見れば、地球環境の変化により今ある自然がすでに見られなくなっている可能性はありますが、30年くらいのスパンではその可能性はほとんど考えられません。逆にそういうことがあったら恐ろしいことです。特に価値が低いのは、花や昆虫などを撮ったいわゆるマクロフォトです。こういうものはそれが絶滅危惧種でもない限り、いつでも撮ることができますし、いつ撮っても変わりません。いや、そういう写真に価値がないと言ってるんじゃないですよ。ただ僕の「新基準」から言えば低い評価にならざるを得ないということです。

ただネイチャーのすべてに価値がないというわけではありません。自然とひと口に言っても、人が容易に入り込めないような秘境から、人の暮らしと隣り合わせにある里山まで実に範囲は広いです。このうち国立公園や世界遺産に指定されているような著名な観光地は国の施策で手厚く保護されているわけですから、そう簡単に景観が変わるようなことはありません。だからそういう場所の写真を撮ることは価値が低く、それこそ絵葉書で十分だと言えます。自分が撮らなくても必ず誰かが撮るからです。もし撮りたければ風景写真家が忌み嫌う観光客をわざと入れて撮ればいいのです。それはきっと後に時代を反映する鏡になります。そして自然の中でも最も変化が激しいのは、人の生活に隣接している里山です。こういう場所はややもすると宅地開発や道路建設により失われる可能性が高く、今ある風景を30年後に見られる確証はありません。こういう風景こそ写真で残しておかなければならない自然と言えます。

というわけで、「ストリートスナップは良いが、ネイチャーはダメ」といった風に杓子定規に割り切るのではなく、常に「30年後に見て価値があるか」という基準で判断すれば間違いがないのだと思います。そういう目で見れば「撮るものがない」なんて悩むことはなく、身の回りのものすべてが宝の山に見えてくるはずです。

ただこういう写真の欠点は「即効性」がないということですね。年代物のワインと同じように、蔵から出して賞味できるまでには数十年といった時間を要します。ですからこういう写真はブログに載せるために撮るという動機は成り立ちません。あくまでもライフワークとして「我慢」しながら撮らなければならないのです。それに対してネイチャーは即効性があります。きれいな花や朝焼けの決定的な瞬間を撮れれば、みんな「キレイですね」と褒めてくれるし、コンテストにでも応募すればひょっとして入選するかもしれません。

ここまで書いて自分で妙に納得してしまいました。要するに自分は「即効性」を求めていたのだな・・と。すぐ結果の出る写真にネイチャーは最適ですから・・。これもブログのために撮るという不純な動機がそうさせたに違いありません。なんでそのことにもっと早く気付かなかったのか、返す返すも残念でなりません・・

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