1994.3.27 早春の東吉野

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自転車

実走日:1994年3月27日(日)
コース:中黒~国栖~三茶屋~大宇陀~芳野~岩端~谷尻~木津~伊豆尾~小川~中黒

 3月下旬、ようやく春めいてきたとは言え、三寒四温の言葉通り、このところ真冬に逆戻りしたような寒い日が続いていた。

 冬の間は戸外に出るのも億劫になり、サイクルツーリングも冬眠状態であった。もっぱら地図を眺めながら机上のツーリングを楽しみ、この憂鬱な季節が早く終わって、うららかな春が訪れることを待ち望んでいた。

 今日も空は晴れているが、風がやや強く、気温も低めである。もうすぐ4月だというのに、春は足踏み状態でなかなかやって来ない。しかし、心はもう待ちきれなかった。陽光に誘われるように、この春一番のツーリングに出かけた。

 行き先は、手近なところで奈良県の東吉野村にしようと思う。三重県と境を接するこの村は、美しい森林と川に恵まれ、自転車でも何度か訪れたことがあるが、一谷峠というまだ越えていない峠が残っていた。この峠を越え、できるだけまだ走ったことのない道をつないで周回コースを組んでみた。

 東吉野村へは自宅から走って行けないほどの距離でもないが、交通量の多い国道を走るのは全くつまらないので、ロードレーサーを車に積んでの移動となる。無駄なところはできるだけ走らない主義なので、このような形態をとることが多い。東吉野村中黒の高見川沿いにある休憩所に駐車して、正午過ぎ出発の準備を整えた。

 中黒の休憩所から高見川沿いの県道を下って吉野町に入り、吉野川との合流地点に出る。新子あたりは古い家並みが続く。

 信号で道が二手に分かれ、大宇陀の標識に従って右の国道370号線に入る。すぐに上り坂となり、入野(しおの)トンネルまではかなりの勾配が続く。カーブを一つ曲がると民家の屋根越しに吉野川を見下ろすことができる。

 入野トンネルは上り坂になっているため、出口が見えている割には長く感じる。あまり広くないトンネルだが、交通量が少ないのが幸いである。

 トンネルを抜けてもなおも上りが続き、早くも休みたい気分になる。津風呂湖への入口を過ぎるとようやく下りが現れ、やっと一息つけるところである。

 この先短いトンネルを2つ抜けると、ゆるやかな上りとなる。関戸峠までは特にきつい上りがないので、ほどよいペースで楽に上っていくことができる。呼吸とペダリングがかみ合っているとき、上りは実に楽しい。この道はこれと言った特徴のない道だが、交通量が少ない上に道幅が広くて大変走りやすい。

 吉野杉の産地らしく、あちこちで道端に丸太が積まれているのが目につく。峠の手前ではやや勾配が急になるが、あと一頑張りで難なく関戸峠に着く。関戸峠のバス停があるほかは、特に何の変哲もない峠である。

 峠を越えると下りはほんの少しで終わり、すぐ平坦になってしまう。一つ目の峠を制した勢いで快調に飛ばし、にぎやかな大宇陀町の市街に入る。峠からの下りが短いのは、この町が標高350mほどの高原に広がっているからである。信号のある交差点で松阪の標識を見て右折し、国道166号線に入る。

 すぐに笹峠と呼ばれる小さな峠があるが、これは峠というほどでもなく、わずか数百mで簡単に越えてしまう。この国道166号線も交通量が少なく、走りやすい道である。ややアップダウンがあるが、ほどなく菟田野町の市街に入る。古市場まで来ると、白い雪をまとった高見山の雄姿が真正面に現れた。高い山はまだ冬の装いである。またここから高見山がくっきりと見えることは意外な発見であった。

 菟田野町は毛皮の町であり、街道沿いには毛皮製品の店がたくさん並ぶ。市街地を抜け、町役場から数百m先の松井の交差点を左に折れて、県道31号線に入る。

 この県道に入ると交通量はほとんどなくなり、芳野川に沿ってのどかな田園風景の中をほぼ水平に走っていく。道端の梅の花と時折聞こえる鴬の声が春の到来を告げていた。

 上芳野まで来ると、道はゆるやかに上り始める。ここからが本日のメインイベントとなる一谷峠への上りである。春の訪れとまだ見ぬ峠への期待に心を弾ませながら、追い風にも助けられて軽やかに上っていく。

 川岸には桜並木があり、ロープに紅白の提灯がたくさん吊されていた。桜の咲く頃には地元の人たちが花見の宴を開くのだろう。満開の桜を想像しながら上っていくと、ほどなく岩端のバス停に着いた。

 バス停の小屋でしばし休憩し、地図を眺める。ここからは本格的な上りとなり、山の斜面をはい上がっていく道が右方に見える。一谷峠までの標高差は140mほどであったが、地図で見る印象は、つづら折れでかなり厳しそうであった。

 小休止の後、最後の上りにとりかかる。ここで道は大きく向きを変える。「谷尻」と書かれた小さな標識を見て右に折れ、橋を渡って斜面を駆け上っていく。実際に上ってみると、勾配はそれほどきつくなく、地図で見た印象ほどは厳しくなかった。

 ここまで来ると通る車は全くなく、聞こえるのは木々のざわめきとチェーンの回る音だけで、静寂そのものである。全く人気のない山中を走りながら、今この場にいるのは自分一人だけという、一種の優越感のようなものを感じていた。

 写真を撮るために一回小休止し、時々立ち漕ぎも交えながらほどよいペースで上っていく。インナーローは40T×26Tという、ロードレーサーとしては軽めのギア設定のため、脚力がなくても割と楽に上れる。時々展望が開け、カーブを一つ曲がるごとに高度が上がっていくのを実感できる。次第に明るい雰囲気になり、峠が近づいたことを予感した。ゆるやかになった上りをもう一頑張りすると東吉野村の標識が現れ、ようやく一谷峠に到着した。思ったより楽に上れた感じであった。

一谷峠

 峠は林の中にあり、残念ながら展望はきかない。時間はもう2時を回っているので、ここで遅めの昼食をとることにする。いつの間にか空は快晴になっていた。峠を吹き抜ける風はまだ少し冷たいが、柔らかい陽射しは間違いなく春のものである。

 春先はおそらく日本人の最も好きな季節であろう。風や陽射しの微妙な違いに確かな春の訪れを感じていた。厳しい冬が終わり、春の訪れとともに何か心の中まで明るくなるようなこの季節が好きだ。サイクリストにとって春の悦びはまた格別のものであろう。

 道端に座り込んで休憩している間、通る車は全くなく、風にゆれて木々の葉の擦れ合う音だけがざわざわと聞こえていた。おそらく土地の人以外には名前すら知られていないような峠ではあるが、それでも自分の峠越えのリストが一つ増えたことを単純に喜んでいた。思えば今までのツーリングはやみくもに走るだけで、峠で憩うという行為をあまりしていなかった。この頃からツーリングの形態も変わっていった。

 2時半頃峠を後にして下り始める。あとは下り一方のはずである。少し行くと谷尻の標識があり、それに従って右の細い道を下る。ここからが谷尻地区である。そこはひっそりとした小さな集落であった。

 谷尻川は高見川の支流となる小川である。川沿いの道は、吉野杉の美林の中を行く快適な下りである。ただ、鬱蒼として日陰が多いので、かなり寒かった。手袋から露出した指先が冷たい。下りと言えどもペダルを回していないと身体が冷える。大変狭い道であるけれども、国道に出るまですれ違う車はほとんどなかった。

 やがて国道166号線の旧道に出て右折する。ここまで下ってくると日当たりがよく、さすがに暖かい。この道は伊勢南街道と呼ばれ、伊勢参道の一つである。木津付近は往時の面影が色濃く残るところである。狭い旧道の方が情緒があるが、標識に従って橋を渡り、対岸の立派な新道に入る。こちらの方が見晴らしは良く、振り返れば秀麗な高見山を間近に仰ぎ見ることができる。

 台高山脈の北端に位置する高見山は、関西屈指の名山と言われ、あたかも独立峰のようにひときわ高く聳えている。木津付近から見る高見山は、整ったピラミッド型をしていて最も美しい。一度その山頂に立ったことがあるが、360度さえぎるもののない大パノラマは名山の名に恥じないものであった。この山がどこからも見えるここの風景が大変気に入っている。

 立派な国道を快調に下り、新木津トンネルの手前で斜め右の狭い道に入る。いきなり立ち漕ぎでないと上れないような急坂が始まる。やっとの思いで上りきると、結局旧国道に合流した。ということは、そのまま旧道を走っていれば苦労せずに済んだのであった。標識につられて新道に入ったために、無駄に上らされた格好になる。

 「小(伊豆尾)」と書かれた古びた道標を見て、左の道を下っていく。林間を抜けるとまもなく高見川のほとりに出て、伊豆尾の集落に入る。ここからは高見川に沿ってゆるやかな下りが続く大変気持ちのよい道である。少々速すぎるかもしれないが、35km/hくらいで快走している。次々と後ろに飛び去っていく景色もまた爽快なものである。

 この付近の高見川は、河原を巨岩が埋め尽くしていて、渓流の様相を呈している。河原では渓流釣りを楽しむ釣り人の姿が多い。水は限りなく澄み、春の陽光を受けて川面が白くきらめいていた。ここは初めて通る道であったが、身近にこんな素晴らしい清流が存在することを発見したのは大きな収穫であった。それは何か自分だけの秘密の場所を見つけたような気分でもあった。

 渓流の眺めを楽しみながらどんどん下っていくと、やがて朱色の吊り橋が見えてきて丹生川上中社に着いた。同じく朱色の欄干をもつ蟻通橋は、周囲の風景に溶け込んで風情がある。

 丹生川上中社は675年創建の東吉野村を代表する古い神社であり、唯一と言っていい観光地である。立派な造りの本殿には水の神様が祭られている。それはこの村の人々がいかに川を大切にしてきたかを物語っている。鬱蒼とした林に囲まれた境内には荘厳な雰囲気が漂う。

丹生川上中社

 川の向こう側には東吉野キャンプ場があり、夏場は大変にぎわうのだろう。また蟻通橋の前には最近できたばかりと思われる真新しい木造の休憩所があり、観光ポスターが貼られていた。東吉野村では、このような休憩所や観光案内板がよく整備されており、観光客の誘致に力を入れているようであった。

 丹生川上中社を後にして、さらに高見川沿いの道を下る。このあたりはほとんど切れ目なく集落がつながっている。それはこの川がもたらす豊かな恵みによるものであるに違いないだろう。やがて村で最もにぎやかな鷲家口に着いた。

 役場のある鷲家口は東吉野村の中心地であり、しっとりとした古い家並みが続いている。吉野名物柿の葉寿司や釣り具の店も多い。高見川は釣り好きの人にとってはたまらないところであろう。

 役場の前を左に折れて、最初と同じ県道に入る。あとは出発点の中黒に戻るだけである。小栗栖(おぐるす)あたりは木の間越しに高見川が見え隠れする感じのよい道である。ごくゆるい下りを30km/hくらいで快調に飛ばしていった。ロードレーサーでツーリングなどと言うと正統派ツーリストからは邪道と思われるかもしれないが、700Cのタイヤで滑るように走る快感は、またやめられないものがある。

 心地よい疲れの中、出発点に戻ってきて、ささやかなツーリングが終了した。今回訪れた東吉野村は、交通の便が悪く、これと言った観光地もないので一般にはあまり知られていないが、そこには豊かな自然がいっぱいあった。澄みきった清流と緑深い山々、そしてきれいな空気、それだけで十分だ。このような美しいところが身近にあることを知って、ますますこの地に強くひきつけられていった。

走行距離 走行時間 平均速度 最高速度 最高地点 最大標高差
49.66km 2:24:55 20.5km/h 49.0km/h 590m
一谷峠
390m
片雲の風に誘われて