写真

バス停のある風景

投稿日:2010 年 11 月 1 日 更新日:


柴田秀一郎 - バス停留所

ちょっと大きめの書店にある写真集のコーナーに行くと、世の中にはいろんな写真を撮っている人がいるものだと感心します。まあ風景とかポートレート、街頭スナップなんてのはありふれてますが、最近は工場、廃墟、地下、ダム、秘境駅といった特定のテーマに集中して撮影された写真集が幅を利かせてきました。ちょっと変わったところでは秘密基地(意味わかりますか?)とか・・。たいていそれらは普通の人が写真に撮ろうとはあまり思わないものですが、それが一冊の写真集になるくらいのボリュームで集まると一つのベクトルとなってエネルギーを帯びてくるのですね。最近は廃墟ブームですが、確かに廃墟は美しいと思います。打ち棄てられて人々から忘れられ、自然に還って行く姿には「滅びの美」を感じずにはいられません。それはもはや一点ものであっても十分作品として成り立つものです。まあ廃墟くらいのインパクトがあればそれを撮り続ける理由というのは理解できるのですが、それがもっと地味で平凡などこにでもある風景だったりすると、それにこだわって撮り続ける理由は常人にはなかなか理解しがたいものです。

そんな中でふと目に留まったのが『バス停留所』という一冊の写真集です。これを手に取ったとき、「あっ、やられた!」と思いましたね(笑)。いつも前を通り過ぎていながら、何で今まで気付かなかったんだろう・・・と。僕は一度写真をやめてから、どうしても復活ができませんでした。ちょっと盛り上がりそうになってはまたスーッとしぼんでいく・・・の繰り返しです。なぜかというと、僕にはテーマがないからです。撮りたいものがないんだから、どこへ行っても撮れるはずがないんですね。ネイチャーはとっくに卒業しています。去年あたりは「懐かしい風景」をテーマにしようかと思いましたが、結局だめでした。そんな漠然としたテーマでは何を撮っていいのかさっぱりわからないんですよね。わざわざ旅に出ても結局しょーもない写真ばっかり撮って帰ってくるだけで自己嫌悪に陥ります。要はそんな抽象的なテーマじゃなく、具体的な「対象」がないとだめなんです。

これは写真のテーマに限らず、旅の目的や自転車ツーリングの目的すべてに当てはまります。今の自分は何も目的がないから旅行もしたくないし、自転車も乗りたくないんですね。何かを続けるにはモチベーションが必要なんです。写真を撮る対象として必要な条件は日本全国どこにでもあるということ。これは絶対に外せません。特定の場所に行かなければ撮れないようなものでは年中撮れないし、到底長続きしません。そういう観点から見ると、道路元標、丸ポスト、県道ヘキサ、駅、峠・・・などは最適なものと言えますね。特に道路元標は存在自体が不確かで、探さないと見つからない宝探し的な要素も含まれているので面白いと言えます。しかし峠にせよ道路元標にせよ、すでに大御所がいるので今さらやっても意味がないという諦めがあります。

盲点だったのは「バス停」でした。そんなものどこにでもあるし、いつでも撮れるし、写真に撮ろうなんて思ったこともありませんでした。しかしこの写真集の作者が巻末で述べているように、バス停はいつでも撮れると思ったら大間違いなのです。昨今は路線バスの利用者が激減し、路線の廃止が急速に広がっています。一度廃止されてしまえばバス停は跡形もなく撤去され、二度と撮れなくなってしまうのです。言われてみれば確かにそうですが、そんなこと今まで考えたこともありませんでした。ですから今バス停のある風景を撮るということは、記録写真としても貴重なものなのです。

バス停というのは会社によって形やデザインが異なるので、そのものの面白さもありますが、地名が入っていることに大きな意義があります。周りの風景と一緒に撮っておけば、その土地がどういうところなのかを象徴的に説明することができます。中には平成の大合併以前の町村併合により消えてしまった地名の痕跡がバス停の中に残っているケースもあり、地元の人が過去の地名に愛着を持っていることが感じられて嬉しくなります。こういうものを発見するのは地域の歴史を知ることにもつながり、大変興味深いものです。もっともここまで来ると限りなく道路元標に近づいてきますが・・(^^;

さてこの写真集を購入して一通り目を通した感想ですが、まずボリュームがすごい。全部で181点もの写真がギッシリ詰まっています。全国47都道府県から満遍なく選ばれたものですが、もちろんここに載っているのはほんの一部で実際は数え切れないほどのバス停が撮影されたのでしょう。見覚えのある桜井市「忍阪」のバス停もありました(笑)。いずれも単なる記録写真ではなくシャッターチャンスを意識して撮られたことは明らかで、情緒のある作品に仕上がっています。田舎道にポツンと立つバス停であってもそこに何となく温かさを感じるのは、それを必要とする人がいるからに他なりません。全編モノクロ(おそらく銀塩)で撮られたバス停の風景は、どこにでもあるような日常の光景ですが、そこはかとない郷愁を感じさせるあたりはちょうど尾仲浩二さんの作風と共通するものがあります。

こうなるとすぐ自分も撮ってみたいと思うのが悪い癖です(笑)。長らくテーマに苦しんでいたのですから、これは願ってもない格好のテーマになり得ます。なにせ田舎道でバス停はいつも通り過ぎてますから・・(笑)。すでにやられているものは意味がない、二番煎じはダメという意見もありましょうが、バス停なんて全国に何万とあるだろうし、一人で全部撮り尽くすなどとても不可能です。たとえ撮られたものであっても季節や天候が違えばまた異なるものになるだろうし、もちろん撮る人によっても見方は違います。自分のオリジナルなものにできればそれはそれで意味のあることだろうと思うのです。

僕は写真には大きく分けて二つのタイプがあるんじゃないかと思うんですが、一つは「予定された写真」というものです。これはそこに行けば必ず撮れることがわかっているもので、ネイチャーも大部分はこちらに当てはまります。たいていはいい場所を知っていて、ある時期に行けば確実に撮れるだろうことはわかっているからです。もちろんバス停も地図を見れば場所はわかりますから、こちらに該当します。言い換えれば、あらかじめ目星をつけた上で自分から乗り込んで行って撮るタイプの写真です。一方、もう一つは「偶然性の写真」というもので、これの代表は何と言ってもスナップでしょう。常にカメラを持ち歩いて、これぞと言った瞬間に出会ったとき反射的にシャッターを切るというやり方です。言い換えれば、向こうから飛び込んでくるのを待つタイプの写真ですね。

僕が長年写真をやってきて、もちろん両方のタイプは経験しているのですが、自分には「偶然性の写真」は向いてないと思ったんですね。一時、散歩写真というのをやってみようかと思いましたが、カメラ片手にブラブラ歩いて何か面白いものはないかとキョロキョロするわけですが、何を撮っていいのかわからず、結局何も撮らずに帰ってくるんですよね(笑)。また風景写真であっても車なり自転車を走らせながら、いい風景がないか探して回るというやり方もありますが、たいがいは何も撮らずに帰ってきます。いわゆる「坊主」ですね(笑)。やっぱり自分には偶然性に期待する写真はダメなんですよ。昔あれほどネイチャーにはまったのは、それが「予定された写真」であるからに違いないと今になってわかったのです。僕にはこのタイプの写真が向いてると思うんですね。だからバス停はピッタリじゃないかと・・。少なくともそこへ行けば必ず撮れるわけですから、たとえつまらなくても何かしら撮れれば「収集欲」は満たされます。写真的に良いか悪いかは別として、原則的に「坊主」はあり得ません。僕にとって、「何も撮らずに帰ってきた」というのが一番のストレスになるんですね。ああ時間の無駄だった・・・と。趣味で写真を撮りながらそんなストレスを溜め込みたくないですからね。

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